Blog

お仏壇は家の中のお寺です

そこでまず、
仏教がインドから中央アジアや中国、
朝鮮半島を経て、
日本にわたってきて以来、
千数百年の歴史をつらぬいてきたひとつの「原型」にだけは目をとどめておいてほしいと思います。

それはお仏壇が、
文字どおり「壇」であるということです。

仏さまの屋形を厨子と呼びますが、
それは単なる容れ物ではなく、
かならず一段高いところに安置する場所をこしらえた「嬉匡になっているところに意味があるのです。

どのように簡単な小さなお仏壇でも、
それが単なる収納ケースでない証拠は、
壇が設けられているということです。

「壇」は仏教の理想を象徴

この壇は、
ただ空間的な高さを示しているだけではなく、
仏さまの世界をあらわしているのが特徴です。

つまり、
仏教の世界観でいう、
もっとも高い位置を壇を設けることで表現しようとしているのです。

これを須弥山と呼びます。

もっとも高い位置であることを山にたとえてあるのです。

この須弥山を形どったものが、
お仏壇の中にある須弥壇一です。

どのお寺に詣でても、
ご本尊は複雑な構造や彫刻で美しく装飾された壇の上に安置されていることに気づきますが、
これは仏教の求める最高の理想が表現されているので、
これをさらにミニチュア化したのがお仏壇です。

ですから、
わたしたちは、
お仏壇のみ仏を礼拝するとき、
憎しみや悲しみや、
怒りゃ争いの絶えないこの地上にありながら、
仏教でいう最高の理想の世界と対面することができるのです。

お仏壇の構造

お仏壇は、
仏教の宗派によっていろいろ形式のちがいがあり、
ごく一部に例外的な場合もありますが、
まず大半が、
須弥壇の上に安置したご本尊が中心になっています。

そして両側に、
各宗派の宗祖などの絵像をかかげ、
さらにご先祖の位牌や過去帳を置さ、
香炉や燭台言lソク立て)、
花瓶(花立て)などの仏具でお飾りされるようになっています。

たいていは前面に観音開きの一扉があり、
簡単なものは一重、
普通は二重で、
この扉の開け閉めによって、
普通の日常生活と〃聖なる時間″の区別がされるようになっていると考えていいでしょう。

つまり、
扉を開いてお参りするとき、
その部屋は、
たとえば居間のように日常生活を営む「俗なる空間」でありながら、
そのまま仏さまと対面する「聖なる部屋」とかわるのです。

何でもないときにはお仏壇を求めない?

お仏壇を求める時期は、
葬式を出したときとか、
一周忌などの年回法要にあたった年という”ヘンな常識″があります。

もっといえば、
それ以外のときにお仏壇を求めると「新仏」が出る、
つまり、
その家に死者が出るという、
とんでもない”迷信″があって、
そのためにこわくてお仏壇を買えない、
という人も多いようです。

もちろん、
そういうことは根も葉もない迷信です。

それが証拠に、
たとえお仏壇を求めようと求めまいと、
家族はいつか欠けてゆくものだという当り前すぎるほど当り前の現実を思い浮かべていただければいいでしょう。

やや意地悪い見方をするなら、
それならばお仏壇さえ買わなければその家から死者は出ないのか、
と質問し直してみれば、
いっそう明瞭になると思います。

「生者仏滅会者定離」といいます。

生あるものは仏ず減し、
肉親や友人とはいつかは別れなければならないという意味です。

人間としてこの世に生をうけた以上、
決してのがれられないそういう現実を、
いかに超えて永遠の「いのち」を求めるか、
というところから仏教は起こりました。

死者の出ない家はない

余談になりますが、
お釈迦さまがまだこの世におられた頃の有名な話があります。

ある町に若い婦人がいました。

婦人は夫と幸福な生活を営んでおり、
やがて、
ふたりの間に愛の結晶をもうけました。

子はすくすくと成長し、
可愛いざかりになりました。

ところがなんとしたことか、
この子がわずか一日の病で死んでしまったのです。

悲しみのあまり婦人は取り乱しました。

そうしたとき、
世の苦悩を去って覚りをひらかれたお釈迦さまという存在に気づいたのです。

婦人はお釈迦さまのもとをたずね、
その超能力で死んだ子を生きかえらせてほしいと頼みました。

お釈迦さまはふたつ返事でひきうけ、
そのかわりひとつの条件を示しました。

それは、
身内から死者を出したことのない家から、
一粒のケシの実をもらってくるようにということでした。

婦人は、
そんな簡単な条件ならばとよろこんで親戚や知り合いをたずねてまわったのですが、
身内に死者がないという家は一軒もなく、
何日も何日も足を棒にして歩いてやっと、
そんな家などあるはずがないという厳粛な事実に思いあたったというのです。

生あるものはかならず減するのであり、
生あるものが減するという永遠の積み重ねの上に、
私の「いのち」が支えられていたことを思い知らされたのでした。

お仏壇は、
いわばそういう仏教のこころを身近に味わい、
人生を豊かに生きるためのものであり、
ご先祖から自分につながっている果てしないいのちと、
そのいのちを永遠の生命として伝える生活の実感をたしかめるものです。

今さら、
お仏壇を求めたから新仏が出るというような見えすいた〃迷信″にこだわることは少しもないのです。

 

作法
仏壇作法